花屋の運営

なぜ花屋として独立しようと思ったのか、これまでの経緯を話そうと思う

なぜ独立しようと思ったのか、なぜ花屋なのか自分でも自問自答してしまう時があります。

はじめは独立など考えていなかったのですが、このまま人生が終わるのがすごく嫌だった!会社の歯車となって役目を果たし、その枠組みの中で出世というその世界にしか通用しない階級を味わうのもなんとなくしらけたし。それだったら自分が興味あって好きなことをしようと感じました。今までの経緯を少しだけ書こうと思います。

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なんとなく社会にでた凡人

僕は初め大学を卒業してから普通に就職をしました。当時はリーマンショック前で景気も悪くなく、周りの友達もみんなすぐ内定をもらっていたのを覚えています。しかし僕はなかなか内定をもらえず、いつも最終面接で落ちていました。周りは社会から必要とされている。僕は違うんだ!っていつも思っていました(*´Д`)

そんなこんなで地元のホームセンターから内定をいただいて、そのあとすぐにアメリカのリーマンブラザーズ倒産といういわゆるリーマンショックになり、いきなり不景気と就職氷河期になってしまいます。僕はせっかく内定をいただいたホームセンターに就職することにしました。

ホームセンター時代の仕事

ホームセンターの仕事がもう激務!!社会人ってこんなにきついの!!もう無理!とすぐに感じました。

あさの8時から夜の23時までほぼ休憩なしの仕事。しかも初めの配属は熊本県と大分出身なのにいきなり県外へぶっとびカードを使われました・・・家族も友達もいなかったので人生ですごく孤独を味わっていました。

激務過ぎて朝から晩まで移動はほぼ走っていました。毎日何キロ走っているんだって思うぐらい、移動はダッシュしてましたねー。なのでもうすごく痩せたのを覚えています。体重70キロがもう三か月で体重50キロ代になって自分でもびっくりするぐらい体が軽くなったのが実感できました(*^^*)

二回目のぶっとびカード(転勤)

ホームセンターの仕事も慣れてきた二年目、友達もでき彼女もでき熊本にも慣れたし、仕事は大変だけどそれなりに楽しんでいたと思います。しかし突然の転勤(*´Д`)!!宮崎県の延岡市にぶっとびカードを使われて、これで熊本の生活にも終止符をうちます。

その時は転勤は、一週間の間に家見つけて引っ越しまで命令されたが、今思ったらそれもパワハラなのでは?と思うぐらい無茶苦茶な指示だったなぁと感じます。

このころから自分は会社の意思で動かされ自分の意志では動いていないと強く感じ独立したいと少しづつ考えるようになります。

延岡店に同じようなやつがいた!

人間って似たものが集まるものです。転勤先の同僚に同じようなやつが二人いました。会社の同期で二人とも特に連絡など取りあってもいなかったが、話してみるとふたりとも将来独立希望で、なんか僕の知らない世界をすごく知っていた!

一人は株もしてたし、パソコンも詳しかった!もう一人はイケメンでみんなの人気者!二人ともすごく仕事ができるし僕にはない能力を持っていて素直にすごいと感じた。それと同時に劣等感も少し感じました。(-_-;)

僕以外の二人が転職!

なんと同僚の二人が転職!しかも二人とも営業職に転職して同期もいなく一人になってしまいました。

二人とも転職した先の給与も休みの回数も多く本当に羨ましかったです。

なんとなく僕も転職活動をしていたのですが、気になるところもなく時間が過ぎていくだけの日々でした。

自転車屋をしたくなった

先に転職した同期とはよく連絡を取り合っていたのだが、その同期との会話の中でどっちが誘ったのか今はわからないが自転車屋始めようと考えたのだった。二人とも今の職場で自転車部門の担当をしていた経験があったし、何より自転車が好きだった。そんな感じで僕も賛同して勢いで約四年務めた会社を辞めてしまったのだ。

自転車屋開業への挫折

自転車屋をしようと試みた僕たちは福岡市に開業の物件を借りようと思い、住んでいた宮崎から福岡に行ったり取引先と連絡とったりと今までになく大変な作業をしたのを覚えています。

住むところが無職ではなかなか借りれない現実に直面!僕たちはやっぱりお金があまりなく信用もなく物件もなかなか借りれなかったです。自転車屋の開業の意欲もだんだんと薄れていきました。たぶん覚悟がなかったのだと今思えば感じます。

祖父の家に住もうと思い大分県へ

自転車屋もあきらめ、晴れて無職になった僕はお金もないから祖父の家がある大分県大分市に引っ越すことになった。なんといってもそこは家賃がタダなのだ!だからそこにしました。僕の祖父は入院中で引っ越したその家はだれも住んでおらずとても快適でした。

何をしていいのかわからず職業訓練校に行く

いくら家賃がかからないといっても生活にはお金がかかります。貯金がどんどんなくなるのがもう恐怖でたまりませんでした。

失業手当までは三か月後だし待てないなぁと思い、人生で初めてハローワークに行くことに。

ハローワークの求人の多さに驚きました。こんなにも雇っているんだなぁと思い、迷うほどでした。そして利用者の人数の多さにも驚き、こんなに失業してるんだと気づかされました。

それでもしたいことがわからず、延命のためにちょうど開校だった職業訓練校に行くことにしました。職業訓練校は失業保険がすぐにもらえるため、迷わず行くことを決めました。

職業訓練校は最高に楽しかった!

職業訓練校は色々な技術を学べる国が運営している学校で、僕は住宅リフォーム科にすることに決めました。

住宅リフォーム科で主に習うことは建物の構造とリフォームの仕方で興味もあり、とても楽しかったです。

なんといっても習いながらお金がもらえることはとても魅力的で、しかも午後の3時に授業が終わるという素晴らしいところでした。休みも多く10連休が二回あり、しかもその間お金がもらえるという謎の好待遇でした♪他の訓練生も年代は様々で定年してから入校する方も多く、この好待遇から何回も入校する人もいました!

そんな職業訓練校も半年間しかないのでその間に就職するかどうするかを考えなくてはいけません。こんなにゆっくりした環境だったら社会人に戻れないかもなんて思いました。

なんとなく選んだ花屋の仕事

僕も職業訓練校でもう半年がたとうとしていました。就職をどうしようかと考えた末、将来やはり独立したいという願望もあったので小さい会社を希望しました。大きな会社だったら経営者と近くないため仕事がパートごとに分かれると思ったためです。

そしたら運よく花屋さんがちょうど募集していました。なんとなく直感でここで働こうと強く感じたのを覚えています。理由はよくわからないが、早速そこの花屋に電話して独立も希望していると面接で伝えて、5年間働かせてもらうことになりました。

花屋さんを選んだ理由が僕のなかでいまいちピンと来ていないけど、たぶん小さいころから自然と芸術系の仕事がしたいし自分でものを作るのが好きだったのもあり選んだと思います。

まとめ

こんな感じで僕は20代を過ごしました。ほんといろんな葛藤があったと思います。学生時代から自分が何をしたいとビジョンがわかっていればいいのですが、多くの方がなんとなく働いてそのキャリアの中でできることをまた探すと思います。僕は花屋をするまでに、とにかく独立したいと考えていました。ホームセンターで働き、自転車をしようとしたときの挫折感やハローワークに行き職業訓練校に行ってリフォームを学んだのもいい経験だったと思います。そんななかで自分のしたいことやワクワクすることを冷静になって考えていくことができれば、自ずと見つかっていくと感じました。まだまだ邁進中ですが今後またいろいろチャレンジしていきそれが自分のこれからの人生の糧になることを信じ、楽しみにして過ごしたいと思います。